写経と米粒
皆さんこんにちは。
営業部の平田です。
今回は写経と米粒についてです。
日本へ仏教が伝わったころ、お寺の三重塔や五重塔には
必ず仏舎利がおさめられていました。
鑑真和上は唐招提寺(奈良)に、弘法大師 空海は東寺(京都)に
中国から仏舎利を持ち帰っておさめたそうです。
でも本物の「仏舎利」は貴重で限りがあり、だれでも
簡単に手に入りませんでした。
インドでさえ640年ころには、「法舎利」といって、
仏舎利と同じ価値とされる「写経」を、仏舎利の代わりに
ストゥーパに収めて供養するのを三蔵法師 玄奘はインド旅行中に見ているそうです。
その習慣は今でも残っており、お墓に写経を納めたりしています。
中国や日本に伝えられた仏舎利は、大きさも色も
「米粒」に似ていたので、お米を大切にする農業国日本では
早くから、もみを仏舎利の代用としていました。
有名なのは室生寺(奈良)の弥勒堂で見つかった
三万七千三百基もの「籾塔」です。
高さ五センチほどの小さな木製の宝篋印塔の中に、
籾一粒(まれに二粒)がお経(宝筐院ダラニ)に
包んでおさめられていました。
今でもご飯のことを「シャリ」とか「銀シャリ」といいますが、
もとは仏舎利からでた言葉です。
それほど日本人になじみがあったのです。
それでは次回へ続きます。